化物

 頭上から落ちてきた大きな水の塊が僕の頭を殴る。ポタポタと顔を滑り落ちる黒ずんだ水滴に濡れて纏わりついた髪の毛を指で押し退け、水の落ちてきた方を見上げれば、トイレ掃除用のバケツを手に、ニヤニヤと笑いながら全身濡れ鼠となった僕を見下ろすクラスメイトたちと視線が合った。彼等の口がゆっくりと開き、僕を指差して言う。
 化物、と。

 僕は濡れた身体を引き摺り、登校してくるクラスメイトたちの嘲笑と侮蔑の視線から逃げるようにトイレへと駆け込んだ。ハンカチで顔を拭いていると、ふと、目の前の鏡が目に入る。僕は心に重く圧し掛かるような暗い憂鬱に襲われた。鏡の中から覗き込んできたのは見るも醜い顔の男だ。脂肪の重みでたるんだ二重の顎が短い首を覆い隠し、下膨れの顔のそこら中に赤い面皰が散らばっている。横向きに二つ、重なった大きなタラコ唇の間からは黄色く汚れた歯と虫の集っている蕪のように歪な形へと変貌した虫歯が微かに顔を覗かせていた。顔の中心を陣取る大きな団子鼻は豚の鼻のように上を向き、深いトンネルのような穴が二つほど虫食いのように口を開けている。斜めに歪んだ左右非対称の眼が瞼の脂肪で細く潰れ、死んだ魚のように生気のない、疲れ切った視線で僕を見返した。僕が今にも零れそうな涙を堪えるように笑みを浮かべれば、鏡の中の男のタラコ唇が大きく湾曲し、汚れに塗れた歯を惜しげもなく押し出す。その悍ましい笑顔はクラスメイトの言うように、醜い化物そのものだった。
 まだ少し湿った身体で自分の教室に入ると、一瞬クラスメイトたちの会話が止まったかと思えば、そこらかしこからクスクスという嘲笑が木霊する。
 「化物が戻って来たよ」
 「うわ、アレまだ湿ってるじゃん」
 「戻ってこなくていいのにねぇ」
 「一生トイレに住んでればいいのに」
 向けられる視線はナイフのように鋭利な蔑みを孕んで僕に突き刺さった。身体はなんともないのに、心はザクザクと穴が開き、真っ赤な血が噴水のように噴き出している。僕は痛みを堪えるように力なく笑みを浮かべ、彼等におはようと返した。それに返されたのは挨拶ではなく幾つものわざとらしい悲鳴だ。
 「やあ、おはよう、化物君。珍しく遅かったね。トイレにでも篭もっていたのかな」
 「はは……そんなところだよ」
 クラスメイトの瀬谷君が親しげに声を掛けてくる。しかし、その端正な顔には嘲笑が浮かび、向けられる視線には侮蔑が込められていた。クラスを先導する中心的な存在で、何が気に入らないのかは知らないけれど、僕を最も執拗にいじめてくる。格好いい容姿と穏やかな物腰で皆から慕われている僕とは正反対のような人だ。
 「昨日の給食はいっぱい食べていたからね。そのせいかな?」
 「それは……関係ないよ」
 昨日の給食は裏庭から拾ってきたのだろう、泥や虫をたくさん入れられた。僕は食べたくなかったけれど、瀬谷君は僕の口を開けさせて無理やり詰め込んできたのだ。僕はあまりの異物感に息が苦しくなり、慌ててトイレに駆け込んで胃が全部ひっくり返そうなほど吐き出すと、飛び出した黄色い胃液が喉を灼く。その日は一日中ずっと腹が締め付けられるような腹痛が止まらなかった。
 僕は瀬谷君に曖昧な笑みを浮かべ、ぶつけられる嘲笑の礫をその身に受けながら、自分の席へと向かう。僕の机の上には白い花瓶が置かれ、その中には枯れ果てて萎びた花が頭を垂れていた。その花弁の落ちた先は『化物!』『死ね!』『消えろ!』といった罵詈雑言で埋め尽くされている。僕はいつものことだと気にしないように自分に言い聞かせながら、椅子を引いた。机の下から顔を出した椅子の上では針を上に向けた幾つもの画鋲が僕を刺そうと狙っている。僕はそれらを落とさないように丁寧に掻き集め、制服のポケットに突っ込むと、ようやく椅子に腰かけた。椅子がギシィと悲鳴を上げて軋む。鞄から教科書を取り出し、机の中に入れようと手を突っ込むと、返ってきた感触とグチュリという気味の悪い水音に思わず悲鳴を上げた。
 「ヒッ!」
 「おやおやぁ、どうしたのかなぁ、化物君」
 「い、いや、何でもないよ、はは……」
 満足げに嫌な笑みを浮かべながら僕を見つめるクラスメイトたちの視線を受け止めながら、僕は机から零れ落ちたモノを怯えるように見つめた。背筋にゾクゾクと寒気が走る。机の中から落ちたのはクネクネと身をくねらせて動き回るミミズだった。恐る恐る机の中を覗き込んでみれば、そこには無数のミミズが互いに絡まり合いながら這い回っている。数匹が狭い机の中は我慢できないとでも言うように机から這い出し、ボトボトと教室の床に零れ落ちた。
 「おいおい、ミミズを学校に持ってくるんじゃねぇよ、化物よぉ」
 「今日のおやつにでもするつもりかい?」
 「おぇ~、気持ち悪ぅ」
 クラス中から聞こえるクスクスという笑い声に、僕は何も言い返さなかった。ただ、涙を堪えるように唇を噛みしめ、曖昧な笑みを返す。皆からは囃し立てるような笑い声が返ってきた。
 その声に被せるようにチャイムの音が鳴り響く。その音と共に、教室の扉が開かれ、先生が入ってきた。透明な角眼鏡を掛け、ピシッと黒いスーツを着こなした真面目そうな風貌の男だ。
 「ホームルームを始めるぞ。お前ら、早く席に着け」
 その言葉に、皆は人が変わったように笑みを引っ込め、前を向く。背筋を伸ばして先生に視線を集める優秀な生徒たちに満足げに視線を向け、しかし、ふと、まだ席にも座っていない僕を見つけた。その足元には未だに這い回るミミズが教室の床を汚している。先生の顔が怪訝そうな表情に変わる刹那、一瞬だけ微かに笑ったような気がした。
 「なんだ、何をやっている。鞄の中の物をしまうのはホームルームが始まる前にやっておけ。お前一人のために皆が迷惑することになるんだぞ。申し訳ないと思わないのか」
 「……はい、すみません」
 「それに、なんだ、そのミミズは。学校にそんなものを持ってくるな。早く外に捨ててきなさい」
 「……はい」
 先生が僕を叱りつける様を、皆はニヤニヤ笑いながら見ている。僕はただ泣かないように唇を噛みしめ、謝るだけで釈明もしない。本当のことを言えば、皆が怒られることになってしまうからだ。僕は説教が終わるまでじっと耐え続け、ようやく終わると、悄然と肩を落としたまま、ミミズを腕に抱えて外へと出ていった。扉をくぐった途端、堪え切れなくなった涙が一粒、床に落ちる。

 放課後、僕は裏庭に蹲り、痛みに耐えていた。身体中にできた痣がじわじわと続く痛みを訴え、散々踏みつけられた制服は泥に塗れている。今日のいじめは何時にも増して苛烈なものだった。鞄の中にゴミや虫を詰められ、給食の時には排水溝の中のヘドロを混ぜられた熱いスープを無理やり流し込まれた。放課後、男子たちに呼び出されたかと思えば、瀬谷君が悠然と見下ろす先で殴られ蹴られと激しい暴行を受ける。やめて、と喚いても彼等は一層笑い声を上げるだけだった。
 「ふぐっ……ぐっ……ふっ……」
 殴るのに飽きたのか、誰もいなくなった裏庭で一人、僕は一日中堪え続けた涙を流す。一度流せば、堰を切ったように涙は止まらず、僕の顔に付いた泥を落とした。一体、僕が何をしたというのだろう。僕はただ、皆と仲良くしたいだけなのに。そんなに自分のこの醜い顔が悪いのか。
 僕は顔の汚れを落とそうとハンカチを取り出し、そして、朝の水でびしょ濡れになったことを思い出して落ち込んだ。トイレの水で濡れたハンカチで顔を拭こうとは思わない。
 僕が諦めてそのまま帰ろうとすると、ふと、頬にひんやりとした心地好い感触が当たった。僕は突然の感触に、肩を震わせ、飛び上がる。
 「なっ、なっ、何っ?」
 「あ、ごめん、驚かせて。痛そうだったからつい」
 勢いよく振り向けば、そこにいたのはクラスメイトの美絵さんだった。クラスメイトの中でもいじめに加わっていない一人だ。彼女の手には濡らしたピンクのハンカチが握られている。さっき、頬に触れた感触はそれのようだ。綺麗な生地を僕の頬に付いた泥が汚していくのを見て、背徳感のような感情が胸の内を占める。
 「だ、大丈夫だよ、ありがとう」
 僕が上擦った声でそう言うと、彼女はすまなそうに眉を垂らした。俯いた顔を長い黒髪が覆い隠す。
 「ごめんね、いつも皆を止められなくて。いじめられているのに」
 「き、気にしないで。僕を助けたりなんかしたら美絵さんもいじめられちゃうよ」
 僕は今までにないほど動揺していた。こんなに人に優しくされたのは初めてのことである。しかも、その相手は美絵さん、僕が密かに想いを寄せていた相手だ。苛烈ないじめで氷のように冷え切っていた心を溶かすように胸が熱を帯び、気持ちが高揚する。緊張のあまり、上手く喋ることが出来ず、言葉に詰まる自分が恥ずかしくて顔が熱くなった。
 「実は、私、ずっと話してみたいと思っていたの。よかったら、一緒に帰らない?」
 「う、うん」
 僕が頷くと、彼女は嬉しそうにふんわりと笑った。僕の顔が再び火を噴く。

 「へ、へぇ、そうなんだ」
 「うん、それでね……」
 まるで夢のような時間だ。川沿いの土手の道を美絵さんと並んで、他愛のない話をしながら歩いていく。吹き荒ぶ風は冷たくとも、顔の熱が冷めることはなく、頭の中は空を飛んでいるかのようにふわふわと落ち着かない。僕は胸に溢れ出る想いを抑えようとするけれども、彼女の可愛い笑顔を見る度に決壊しそうなほどにその奔流は激しかった。学校での辛かった出来事がまるで遠い遥か昔の過去のようだ。胸を止め処なく埋め尽くしていく彼女への恋は火傷するほど熱く、それでいて、甘い幸福に満ちていた。ああ、この河川敷の道が永遠に続けばいいのに。僕は溶けた頭で、そんなことを願っていた。
 しかし、夢はあまりにも唐突に終わりを告げた。
 「おらぁ!」
 蹴られた。背後からドン、と自分の身体を襲った強い衝撃に、そうだと気付いた時には既に遅く、僕は前のめりに倒れ、固いコンクリートの地面に鼻を強かに打ち付ける。団子が潰れ、中から赤く生暖かい血が溢れ出て、せっかく彼女が拭いて綺麗にしてくれた顔を汚した。
 「おぉ! いい蹴り入りましたぁ!」
 「次、俺、行きまぁす!」
 クラスメイトたちのはしゃぐ声と共に、今度は脇腹を思いきり蹴り上げられる。スニーカーの爪先が柔かい肉に突き刺さった。サッカーボールのようにでっぷりと太った僕の身体は土手の坂を転がり落ち、河岸に無様に転がる。
 僕は痛みに呻きながらも、震える足で立ち上がった。鼻血は止め処なく流れて僕の顔に真っ赤な化粧を施していく。背中と脇腹に残る鈍い痛みが喉を締め付けているかのように呼吸が苦しく、口からは風が抜けるような音ばかりが漏れていた。
 しかし、いつものようにやられてばかりではいられない。僕一人ならば、耐えれば終わる話だ。でも、今は美絵さんがいる。彼女が僕に優しくしてくれたと知れば、彼等は彼女にも危害を及ぼそうとするだろう。美絵さんを守らなければ。そう思い、僕は決死に立ち上がる。
 しかし、再びクラスメイトに背中を蹴られ、僕は地面に横たわった。
 「おぅおぅ、頑張るねぇ。これが愛の力ってやつかぁ?」
 「やぁん、僕ちゃん、カンドウしちゃうわ! ヒヒヒヒ」
 「ぐっ……!」
 囃し立てるクラスメイトが倒れた僕の背中を踏みつける。腹が押し潰され、呼吸が苦しい。逃れようと必死に土を引っ掻く爪は裂けて血が滲んだ。もがく僕の無様な姿を見て、クラスメイトたちが笑っている。
 「やぁ、化物君。恋人ごっこは楽しかったかな?」
 瀬谷君の心底楽しそうな声が聞こえて、僕は顔を上げる。そして、目の前に飛び込んできた光景に目を見開いた。瀬谷君は美絵さんの腰を抱き、彼女もまた、しなだれがかるように瀬谷君に身体を預けている。その表情は頬を赤らめ、うっとりと恍惚に満ちているようだ。
 瀬谷君は悠然と僕を見下ろす。その視線には紛れもない嘲りと侮蔑の色が込められていた。
 「ふふ、どうだった? 好きだったんだろう、彼女のことが。だから、僕がお願いして君の相手をしてあげるように頼んだんだ。感謝してよね。彼女は相当嫌がったけど、最後は渋々協力してくれたよ」
 嘘だ。
 「美絵さん、楽しかった?」
 「ぜーんぜん、面白くなかったぁ。顔真っ赤にして話しかけてくるし、どもるし、話は面白くないし、超キモかったよぉ。でもでも、私、瀬谷君の頼みだから頑張ったんだぁ」
 嘘だ。
 「うん、ありがとう。おかげで、いい見世物が見られたよ。あ、そういえば、あのハンカチはどうしたの?」
 「さっき、ゴミ箱に捨てたよぉ。あんな汚いハンカチ、もう使う気起きないしぃ」
 嘘だ。
 「そう、ごめんね。今度の日曜日、代わりのハンカチ一緒に買いに行こう」
 「え! ほんとぉ! やったぁ!」
 ……全部、嘘だったんだ。あの優しい瞳も、甘い言葉も、綺麗な笑顔も。嬉しそうな笑顔で瀬谷君に抱き着く美絵さんの姿が涙で霞んでいく。もう、脇腹も背中も痛くなかった。ただ、心が罅割れ、ピシピシと悲鳴を上げている。崩壊した穴の奥からは血がダクダクと流れて止まらない。粉々に砕けた心の破片をクラスメイトたちが踏み躙っていった。
 彼等はゲラゲラ笑いながら呆然自失の僕の身体を両脇から支え、瀬谷君の正面に立たせる。僕の後ろでは河が音を立てて流れていた。
 「……どうして」
 「ん?」
 僕は聞かずにはいられなかった。他でもない、彼に。
 「どうして、瀬谷君は……僕が、何かした?」
 「ははは、そんなこと、決まっているじゃないか」

 「理由なんてないよ」

 そう言って、瀬谷君は僕の腹を思いきり蹴り飛ばす。衝撃に飛ばされたまま、僕の身体は後ろに倒れ、河の中へと飛び込んだ。
 薄れゆく意識の中、僕は皆の笑う顔を見る。しかし、それは到底人間とは思えないような醜い顔だった。不気味に吊り上がった眼の中に浮かぶ爬虫類のように細い瞳孔は血走っており、黄色い眼光を放っている。鼻は長く伸び、その先は鉤爪のように大きく折れ曲がっていた。ボサボサの振り乱された髪の隙間から覗く耳は鋭く尖り、そこまで届くほどに大きく口角の裂けた口が三日月型に歪んでいる。その中には牙が何本も立ち並び、その間から二股に分かれた舌が暖炉の中の炎のように揺らめいていた。
 ああ、彼等はなんて醜いんだろう。あの顔は、あの醜悪な顔はまるで。

 ――まるで、化物じゃないか。

 そう思った瞬間、彼の意識は水に呑まれ、水泡と共に消えた。

 

※この小説は『小説を読もう』にも投稿されております。

誘惑

 学校の屋上から見下ろす地面は遥か遠い。それはまるでどれほど手を伸ばしても届かない夕暮れの空のように。けれど、きっと、それは遠く見えるだけで、本当は思ったよりも近いのだろう。ほら、ほんのちょっと、手を。手を伸ばせば。花壇やアスファルトがひび割れて、土の底がぽっかりと大きな口を開ける。険しい凹凸はまるで獣の牙のよう。暗い虚無の奥底から皮と肉のこそげ落ちた骨だけのゆるりと伸びて、私においでと手招きをした。ここから落ちたら、きっと。そう、きっと。私の頭の中の理性が熱に浮かされたように溶けて、チョコレートみたいな苦い妄想が広がっていく。耳の奥を本能の鳴らす警鐘がこだましていた。けれど、気にするほどの騒音じゃあない。

 何かが私の背中を押した気がした。いや、気のせいかもしれない。だって背中を押したのは私なんだもの。私の期待と興奮が私の背中を押したんだ。私のローファーの靴底は屋上のコンクリートを蹴って、空を踏む。一歩、二歩、三歩。私は空にある透明な階段を下へ、下へと駆け下りていく。手を大きく広げたら、私もあの鳥のように。あれほど遠くにあった空が、私の手のひらの中にある。私は嬉しくなって、思わず笑みを浮かべた。前を見ると、どれだけ手を伸ばしても届かなかった地面が、さっきよりもずっと近くにある。それはちょっとずつ、ちょっとずつ近づいてくる。世界は私を受け止めようと、その両手を広げていた。その胸はこの学校にいるどの男の子よりも広くてたくましい。飛び込もう。彼の腕の中に。彼はきっと抱きしめてくれるから。

 あと少し、あと少し。ああ、伸ばした手の、指先が触れた。私は彼の中で水みたいに溶け合って、世界とひとつになっていく。指が、腕が、目が、鼻が、口が、肩が、胸が、腹が、腰が、脚が、爪先が。潰れて、砕けて、飛び出て、弾けて。私の意識は暗闇に消えて、やがて何も残らない。みんなはどんな反応をするのかな。女の子が甲高い悲鳴を上げて。男の子は顔を歪めて。誰か泣いてくれるかな。パパとママは泣いてくれるかな。先生が形だけのお悔やみの言葉を言って。それで、みんなが私のために黙祷するんだ。私の席には花瓶があって。白い花が良いな、好きだから。ああ、いや、でも、そうだね。誰も私のことを気にしないっていうのもいいなあ。登校する人たちが私をちらっと一瞥だけして。親も、友達も、先生も、クラスメイトも、いつも通りの日常を過ごすんだ。私がいない世界で。いいね、最高じゃん。

 ぐいっと身を乗り出した私を、落下防止の鉄製の柵がぎゅっと力強く抱きしめる。ぐえっと思わず乙女らしくない声が出た。私は柵を憎らしげに睨みつけるけれど、彼はしれっとした顔で役目は果たしたと自慢げに言うだけ。甘美な悪夢は余韻だけ残して消え去って、理性の私が声を荒立てて説教している。私はその声を聞き流しながら、自分の胸に手を当てた。少しだけ膨らんだその胸の奥底では、私の生きている音がマグマのように脈動している。昼休みが終わるチャイムの音が鳴り響いた。ああ、早く教室に戻らなくちゃ。私は授業に遅れないようにちょっとだけ駆け足で屋上の扉を閉めた。

 

 

 駅前のクレープがおいしいという話とか。隣のクラスにかっこいい男の子がいるっていう話とか。そんなくだらないけれどなぜか楽しい友達との談笑を終えて、私は駅の改札口をくぐった。無数の人の群れ。彼らはひとりひとりが生きているはずなのに、その列はまるで意思を持たない一匹の大きなヘビみたい。私もその中のひとりだった。黄色い声で笑い合う女子高生とか、空虚な瞳で携帯をのぞくサラリーマンとか、いったい何を考えて生きているんだろう。私はいったいどうして生きているんだろう。

 無機質な女の人の声のアナウンスが響く。あと少しで電車が来る。私の前にはでこぼこした黄色い線が横切っていた。この線は生と死の境界線だとしたらどうだろう。この線を越えたら、私はきっと。そう、きっと。電車は巨大な鉄の怪物だ。身の毛もよだつような恐ろしいうなり声をあげて、線路の上を風みたいに駆け抜けていく。その前に身を投げ出せば、私の身体はどんなふうになるだろう。ぺちゃんこになるのかな、それともばらばらになるのかな。そんなことはどっちでもいいんだけれど。鉄のかたまりは私みたいなちっぽけな女の子なんて瞬く間に食い散らかしていくのだろう。

 「行かないのか」

 背後に立ったスーツ姿の骸骨が私の耳元にささやきかける。彼は決して背中を押してきたりはしなかった。ただ、行かないのかと楽しげにささやくだけ。彼は私が自分から足を踏み出すのを待っていた。黄色い線の向こう側に。けれども、きっと、そこは彼らの側なのだろう。足を踏み出したら、もう二度と、こちらには戻ってこられない。生唾を呑み込むと、ごくりと大きな音が鳴った。私は足を一歩、前に踏み出す。あの黄色い線の先へ。線路の上に立ち尽くす私に、ひたりひたりと迫りくる電車の足音。さっきまで生きていなかったサラリーマンや女子高生が、青い顔で甲高い悲鳴を上げている。慌ただしく鳴り響く携帯電話。彼らはその時、大きなヘビなんかじゃあなくて、まさしく生きている人間だった。その彼らひとりひとりの顔を見ながら、私の口元は弧を描く。電車が私を踏み潰す瞬間、私はたしかに生きているひとりの人間だと感じた。そして、轟音。線路の上を電車が通過していく。

 私のスカートのポケットがぶるっと震えた。開いてみると、友達からのラインが来ている。明日、学校の帰りに例のクレープ屋に寄らない? 私はかわいい絵文字をつけて行くと答えてから、携帯を閉じた。目の前で止まった電車の扉が開く。私はあくびをひとつ吐き出して、電車の中に乗り込んだ。あ、ラッキー、席が空いてる。私は空いている席に座って、また自分の胸に手を当てた。心臓が生きることの喜びを大声で叫んでいる。私の目の前に腰かけている骸骨が私をにやにやと見つめていた。

 「また、行けなかったな」

 

 車窓の外を流れていく景色を私はじいっと眺めていた。一瞬で通り過ぎたビルの屋上からひとつの人影が落ちていく。夢かな、それとも現実なのかな。髪が後ろにたなびいて、押し寄せてくる風の手のひらが私の顔を激しく叩いた。地面が近づいて、近づいて、近づいて。携帯電話の着信音。私は落ちながら電話をとった。お母さんの声が風の音を切って鼓膜を揺らす。今日の夕食、何がいい? 卵焼きがいいな、甘いやつ。私が周りを気にして声をひそめて言うと、お母さんはわかったって言って電話を切った。残ったのは無機質な音だけ。お母さんは私が死んだらどうするのかな。やっぱり泣くのかも。お父さんは。今まで見たところがないけれど、もしかしたら泣いたところが見れちゃうかもしれない。あ、でも死んだのは私だから見れないや。

 ただ、何もない日々を過ごしているだけ。特に辛いことがあるわけでもない。特に死ぬような理由があるわけでもない。彼氏はいないけれど好きな人はいる。告白する度胸は湧かないから、好きでいるだけ。友達もいる。いっぱいではないけれど、それなりに満足しているくらい。お母さんもお父さんも優しい。お兄ちゃんは最近ちょっとだけうざいけれど、よく一緒にゲームしている。すごくかわいいわけじゃあないけれど、だからってブスってわけでもない。授業はそこそこ。進学も就職もまだ考えていないけれど、たぶん地元で働くんだろうな。

 何かがあったわけじゃあないし、不満はあるけれど死にたいほどじゃあない。ていうか、死ぬのは怖い。それなのに、どうしてこんなに私は死にたくなるんだろう。クラスのみんなも同じことを思っているのかな。休み時間に笑ったり遊んだりしながら、心の中では死にたいなんて思っちゃってるのかも。それならどうして死なないんだろう。どうして私は生きているんだろう。ああ、そういえば明日は国語のテストだったなあ。いやだなあ、死んじゃいたい。

 「じゃあ、死ねばいいじゃあないか」

 骸骨がカタカタ笑う。ほうら、みんな死んでいるんだからさ。言われて車窓の外を見れば、並木道に首を吊った人たちが並んでいた。みんな血の気のない蒼白な顔して、とっても幸せそう。ほらほら、お前も死のうぜ。そうすりゃあ楽になるだろ。何を怖がってやがるんだ。俺たちは生まれる前は死んでいた。死んだら生まれる前に戻るだけじゃあねぇか。私は私の存在が消えるのが怖い。きっとみんなも。じゃあなんでそんなに死にたいんだ。怖いんだろう。わからない。何も不満もないはずなのに。どうして私は。

 「なんとなく、かな」

 小さくつぶやいた私を、正面に座るスーツのサラリーマンが訝しげに見て、けれど、すぐに視線を外した。そう、そう、なんとなく。痛いものに惹かれて。醜いものに引き寄せられて。怖いものを羨望して。苦しいものを追い求めていく。人間ってそういうものなんでしょ。死ぬ理由なんて、それだけで十分なんだろう、きっと。

 「死ぬなんてそんな気軽に言うもんじゃあない。君が死んだら悲しむ人が大勢いるぞ」

 電車のアナウンス。サラリーマンのおじさんが諭すように言う。きれいごとだけど、たぶん正しい。みんな泣くだろう。泣いてくれなかったらそれはそれで寂しいけれど。でも、悲しんだからってどうなのかな。だって、その人たちが悲しんでいるところを私が見れるわけじゃあないじゃん。私はその時には死んでいるんだから。死んだ後のことなんて知ったこっちゃあない。いや、なにも悲しむところを見たいわけでもないけれど。

 「迷うくらいなら死んじまえばいいじゃあねえか。生きること自体がつらいだろう」

 骸骨が言った。生きていたら辛いことも悲しいこともあるじゃあねえか。死んだら全部なくなるんだぜ。いいことばかりだ。何も考えなくてもいい。素晴らしいじゃあねえか。いや、でも怖いし。怖さなんて死ぬ瞬間だけのことさ。だって、死んだらなくなるんだからな。うん、うん、たしかに。そうかもしれない。私は席を立って、停車した電車の開いたドアをくぐる。降りたのは私だけだった。

 「じゃあ、行こうぜ。もういいだろ、ほら」

 骸骨が改札口の向こう側から骨だけの手を差し出してくる。頭蓋骨に開く暗い眼窩の底には爛々とした青い光が私を妖しく見つめていた。うなだれて歩く青白い肌の男が隣の改札口を通って向こう側に歩く。彼の首元には縄をきつく締めたような痕がある。私はふうと息を吐いて、切符を改札に入れると、白くて硬い手を取った。骨の顔はにやりと笑って、力強く私の手を引く。私は引き寄せられるままに、向こう側に立つ彼の胸の中に飛び込んだ。

 

 

 私のポケットで携帯が鳴る。明日、国語のノート見せてくんない? 私はいいよとラインのスタンプを返した。

 

 

 

 

 

※この作品は『小説を読もう』に投稿した小説を加筆・修正したものです。

宵待草

 当夜は待宵である。望月を明日みやうにちひかへた月姫は、しかし今宵は何やら機嫌を損ねてゐるやうで、の美くしい白肌のかんばせを薄雲のすだれの奥へと引つ込めてゐる。ひごの隙間から注がるる彼女のあでな流し目は、帝都の郊外を彷徨うろつく一青年を淡く照らし出してゐた。
 彼の名を山内かをると云ふ。夜色に溶け込む黒い外套マントひるがへす長身痩躯の男である。頭を隠した学生帽の合間から烏羽からすば色の黒髪が垂れ、立て襟の白い洋襯衣シャツの上には黒地のあはせを羽織つてゐる。彼の歩みに合はせて踊るうぐひす色の行灯袴あんどんばかまの裾付からちらりと覗いた朴歯ほほばの高下駄はからころと軽快な音色を唄ひ、腰に引つ提げられた一柄の日本刀が其の律動リズムに乗つて首を上下に振るつてゐた。斯様かやう陳腐ちんぷな装ひでありながら、彼の見目たるや目をみはる程美麗うるはしく、さながら女のやうな美丈夫である。右の御手おては顎に添へ、左は袷の懐に、なりい眉根を寄せて一心不乱の物思ひに耽る様は恰度ちやうど一枚の絵画の如し。彼の同輩の男共が矢鱈やたらと世話を焼きたがるのもむ無しと云へるであらう。望まぬは常に我が身を雄ゝしくたらんと志す渦中の本人ばかりである。
 彼の胸中を悩ませるのは吾身わがみに向けられる重圧の彼是あれこれであつた。彼の父を山内重臣しげおみと云ふ。先の第一次世界大戦おいて輝かしい功績を打立て、英雄とさへ謳はれた軍人である。其の息子たる彼の身に、幼子の頃より多大なる期待が寄せられたのも当然の帰結であつたろう。更に不幸なことに、彼は其れを十二分に応へる程の有能の士であつた。益ゝ膨れ上がる期待、彼の才に抱かるる嫉妬、父の名声、其れ等が無秩序に入り混じり、乱れ、融け合ひ、うして出来上がつたのは青年の双肩に負ふには余りに重過ぎる一つの塊である。いつそのこと、綺麗さつぱり捨て去つてしまへば身軽にもならう、然し彼は生来真面目な性分の男であつた。背負はされた荷を放り出すことすらままならず、人の目のない夜分の逍遥せうえうだけが彼の心休める事の出来る唯一の時間なのである。
 やがて、薫の足の向かふ先に、そびえる白樺の巨躯が現はれた。白妙しろたへの樹皮は仄かな光沢を帯び、多岐に分れた枝先の葉は黄に染まり始めてゐる。真直まつすぐに伸びた太い幹の天を衝く様は宛ら月の輝く射干玉ぬばたまの天涯を支へる柱のやうだ。辺りには建物一つとして見当たらず、秋の小夜風さよかぜの前に其の身を晒す憐れな立姿たるや、まさに帝都から見捨てられた者の末路を指し示してゐた。
 帝都は往年より大日本帝國の発展の象徴であつた。政治、経済、文化、有りと有らゆる事物は帝都を発端として始まつた。近代モダン風の建物が理路整然と並んだ広い目抜き通りには灰殻イカな洋服を着こなした紳士淑女が往来し、其処そこは宛ら異國の一都市であるかのやうだつた。人ゝの胸裏には自由と躍動の希望が横溢わういつし、文化人達は茶店カフェーの一席にて競ふやうに自らの提唱する人生哲学を語り合つてゐた。其の頃は誰も彼もが帝都に憧憬を抱き、煌びやかな洋装を纏つてメヱンストリイトを闊歩する自らの姿を思ひ描いたものである。かつては薫のゐるの地も又、帝都の一画に位置し、大ひに賑はいを見せる住宅街であつたと云ふ。倫敦ロンドンの風景を彷彿とさせる煉瓦レンガ造の家ゝが立並ぶ洒落しゃれた街並みが人気を博し、多くの人ゝが此処ここに移り住んで、其の儘根を張つて出来上がつた。左様な街の象徴とも云ふべき存在として皆ゝより愛されたのがの白樺の木であつた。春は花穂を実のらせて街を彩り、夏は涼しげな日陰を憩ひの場とされた。秋には見るも鮮やかな黄葉を見せ、冬には葉を散らし、春を今か今かと待ち続ける。彼は街と共に育つた住人の一人であり、街を暖かく見守る長の如き存在であつた。
 然し、平穏は或る時、水泡が弾けるかのやうに呆気なく消え去つた。其れは突然のことである。忘れもしない、大正十二年の九月一日、十一時五十八分三十二秒。風の強い日であつた。地の底を這ふ怪物の唸り声のやうな轟音の響いたかと思へば、刹那の後、大地が大きく波打つやうにうねりを上げた。吾ゝは其の瞬間、平和な昼時の日常が崩れて往く音を確かに聞いた。家ゝは大小問はずことごとくが砂上の城の如くに脆くも倒壊し、人ゝは悲鳴を上げる間もなく瓦礫の底へと埋もれて往く。そこらかしこ其処等彼処で火の手が上がつたかと思ふと、旋風つむじかぜに煽られて、家から家へ、人から人へと襲ひ掛り、有りと有らゆるものを焼き尽した。逃げ惑ふ人の波は止め処なく、嘗ての隣人に踏み潰されて死に往く人の多きこと。其の時、吾ゝの誰も彼もが敵であつた。生き残らんとする生物として当然の本能は、吾ゝを原始の頃のやうな知性のない獣に変へたのだ。自分が生き残る為ならば、他人の身なんぞにかまけてゐる余裕等露程もなかつた。悲鳴や呻き声、怒鳴り声やき喚く声、正に此の世ながらの生き地獄の様相である。朝鮮人が暴徒と化して放火し乍ら各地を回つてゐるとの流言蜚語りうげんひごが飛び交ひ、彼方此方あちらこちらで殺傷事件が巻き起こつた。其の噂を助長したのは政府公報や新聞である。疑心暗鬼に陥つた民衆は暴れ、彼等を護るべき自警団や警察も又、噂に踊らされて混乱の極みに達してゐた。軍部は混乱に乗じて政敵を排する事に躍起になり、帝都の其処彼処そこかしこに死体が転がつてゐるやうな有様であつた。政府が流言であつたと認める旨を公表し、事態はやうやく収束したものの、帝都の治安は此の期を境に著しく悪化した。最早其処に栄華等欠片すらも残つてゐない。大日本帝國へそは一夜にして恐怖と殺戮の坩堝るつぼとなつたのである。
 ことに其の住宅街の損害は凄まじいものであつた。煉瓦造の家ゝは余すところなく沈み、灰塵くわいぢん雪崩なだれとなつて住人達を呑み込んだ。助かつた者は両の手の指にも満たなかつた。外観を重視し、其の街並みのほとんどを煉瓦で魅せてゐた彼の街は只の一瞬で瓦礫の土地と変はり果てた。街路樹の多くが火の手に巻かれて焼け死んで往く中で、一本の白樺が残つたのは正に奇跡とも呼べるものであらう。然し、生き残つた人ゝは廃れた街を捨てて帝都の中心に移り住み、嘗て其処に街が在つたのだと語り伝ふる者は白樺の正真木しやうしんぎただ独り。彼の其の寂しげな佇まひには昔の面影等がうも残らず、何もない郊外に独りぼつちで突つ立つた儘、懐古の情に浸る様の何と憐れなことであらう。
 否、彼は独りきりではなかつた。薫が不図ふと彼の足元に視線を落とせば、其処に映るは根元にそつと寄り添ふやうに花開いてゐる一輪の影である。月明りを斯くも果敢はかなき身に受けて、宵の静けさに身を震はせてよろこぶ可憐な其の華の姿たるや、思はず視線が吸ひ寄せられる程美くしい。
 其れは小さな待宵草であつた。四弁に分たれた黄色の花唇くわしんを一つの花束コルサアジュに纏めてゐる様は何とも可愛らしいと云ふのに、其の階下に螺旋を描く新緑の葉にはたくましき鋸歯きょしを隠してゐる。其の姿は縦令たとひ薔薇さうび絢爛けんらんでなからうとも、百合ゆり程優雅でなからうとも、彼女の身に灯る魅力の光輝は決して後塵こうぢんを拝することはない。昼の日輪の陽光を慎み、夜の人目の付かぬ頃にそつと顔を見せる様は筆舌尽し難い程いぢらしく、其の純粋無垢な立姿たるや、宛ら穢れを知らぬ処女をとめのやうである。
 薫は彼女から目を離すことが出来なかつた。手弱女たをやめの如き貧相な体躯であり乍ら、彼女の白樺の木に寄り添つてゐる様は、むしろ彼女こそが彼の巨躯を支へてゐるやうにも見えた。其の果敢なくも美くしい立姿に、薫は見惚れてゐたのである。其の時、薫を支配してゐたのは彼自身の意思ではなかつた。何か堪へ難い衝動が胸の内から湧き上つて来たかと思へば、彼の意識は途方もない無意識の掌中に捕はれて胸懐の奥底へと沈み込み、代はりに台頭せしめるは美を至高として崇める耽美主義的思想である。宛ら夢路を辿つてゐるかのやうに、或《ある》あるいは恋の熱に浮かされてゐるかのやうに、薫は心此処に有らずと云つた風情でそつと口を開いた。

 「遣る瀬無い釣り鐘草の夕の歌が あれあれ風に吹かれて来る」

 厳かに紡がるる其れは竹久夢二の詩歌『宵待草』であつた。彼の唄は囁くやうな小さな声であり乍ら、鏡のやうな凪の水面《みなも》水面みなもに葉の一片ひとひらが落ちて波紋を立たせるかの如く、宵の静寂に融け込んで往つた。其の詩歌に込められた哀愁の、何と物悲しきことであらう。言葉の端ゝから伝はる待ち人の来ぬ寂しさは、正に胸を引き裂くやうであつた。

 「待てど暮らせど来ぬ人を 宵待草の心もとなき」

 其の折、一陣の風が吹きすさぶ。初秋に似合はぬ凍てつくやうなこがらしである。白樺の葉がさわゝゝと騒ぎ立て、待宵草は揺蕩たゆたつて其の果敢なき身を震はせる。風は月を隠してゐた雲の簾を払ひ除け、奥に引つ込んでゐた彼女の姿を夜の空の画布カンバスに晒した。薫は背筋に一滴の水を垂らされたかのやうな悪寒を覚へ、不図夢現ゆめうつつから我に返る。かと思へば、白樺の樹上より舞ひ降りた一声が詩歌の前文を受けて後を継いだ。

 「想ふまいとは思へども 我としもなきため涙 今宵は月も出ぬさうな」

 透き通るやうな女の声である。其の調べたるや、此の世のものとは思へぬ程婉美であつた。鈴を鳴らすやうな清らな声色は冷たい夜気を伝ひ、薫の耳を震はせて内側から身体を叩く。其の甘美な響きの感覚に、薫は酩酊したかのやうに酔ひれたが、同時に彼の心中の警鐘が囚はれてはならぬと激しく騒ぎ立ててゐた。清純なる声音乍らも、其の内には女の醸す甘い芳香を孕んでゐる。然し、其れは彼の最も苦手とする強い香水ヘリオトロオプの匂ひではなく、云ふなれば風信子ヒヤシンスのやうな、淡く包み込むが如く柔らかな芳香であつた。
 薫はゆつくりと仰ぎ見るやうに白樺を見上げた。天上へと伸びる太い幹を中心に据へ置き、彼の四方からは幾本もの広がる枝葉が腕を伸ばして虚空を掻いてゐる。其の巨腕の中の一朶いちだの付根に、佇む一つの影があつた。





※この作品はカクヨムにも投稿しています。

ALICE

 ギャア、ギャア、ギャア、ギャア……。頭の中にカラスの嬌声がこだまする。私は窓際の、前から三番目の席で頬杖をついて、そのなんとも不愉快なトロイメライにそっと耳を傾けていた。ほろほろと崩れ落ちる夕日の明かりが窓の向こう側からハチミツのように溢れ出して、私の左頬をきらきらと温かく照らしている。ショコラのように甘やかな微睡みがすうっと醒めていくにつれて、頭の片隅にほんのちょっとだけ残っていた長い長い夢の余韻が、チーズみたいにとろりと蕩けて消えていった。まだ、もうちょっと……。もうちょっとだけ……。口の中でもごもごと呟きながら目を閉じようとする私の目の前を、瑞々しいベルガモットの香りが羽虫みたいにふわりふわりと飛び回る。虹のような鮮やかな七色にひらひらと輝く蛇みたいな身体には、蝶々のような白い翅が四枚、ゆったりとしたその軌跡には宝石みたいにきらきらと光る鱗粉が天の川のように流れていた。思うがままに鉄柵のひとつもない空の中をゆうらりゆうらりと泳ぎ回るその姿は太陽のように眩しくて、それでいて、心中が煮えくり返りそうなほどに煩わしい。あんまりにも煩わしいものだから、思わず左の手をぐいと伸ばして掴み取ると、羽虫はぷぎゃあと無様な悲鳴を上げてぷちっと潰れた。おかしな悲鳴、私はひひひと笑顔を零す。きっと、潰れた姿も心底おかしいんだろうなあ。私は内心わくわくしながら握り潰した五指をそっと開いて手のひらを見てみるけれど、そこには私のうっすらと薄い生命線が伸びているだけで、他には何もない。あれあれ、おかしいな、たしかに掴んだはずなのだけれど。私は首をこてんと傾けて、手のひらに鼻孔をすっと寄せると、途端、風船みたいにぱちんと弾けた柑橘のようなフレッシュな香りが私の脳髄をさわさわとくすぐる。おかげでからっぽの胸中を埋め尽くしていた抗いがたい眠気のナイフがきれいさっぱり消えちゃって、ぼんやりと白い靄のかかっていた頭の中も今では眼鏡をかけた時のようにはっきりしていた。きっと見ていたであろう長い夢の記憶なんて、もう、ティースプーンひと匙ほども残っていない。私はううんと思いきり身体を反らして伸びをしてみる。節々にひしひしと響く針みたいな微かな痛みが、なぜだかとっても心地良かった。
 ぴんと張りつめていたピアノ線を解き放つかのようにため息ひとつ吐き出して、ほうとひと心地ついたところで私は首を回して辺りをきょろきょろと見渡してみる。うっすらと仄暗い茜色のペンキに染められた教室には、私と、もうひとり、女の子がいた。彼女は木製の教卓の硬そうなお腹にゆったりともたれかかって、じいっと黙ったまま座っている。目も眩むほど真っ赤な模様の刻まれた前衛的な意匠の制服が、窓の外からのぞかせる夕焼けの瞳に見つめられて、深海魚の鱗のようにテラテラと妖しく光っていた。あれあれ、もしかして眠っているのかな。私は気付かれないように彼女の顔を覗きこんでみようとしたのだけれど、よくよく見てみると彼女にはまるごと頭がなかった。もしもーし、聞こえますかあ、聞こえてますかあ。手をブンブン振りながら声をかけてみたけれど、彼女からの返事はない。あらら残念、でもまあ、仕方ないのかも、なにせ彼女には目も耳も口もないからね。裸体を公衆に晒けだすかのようにはしたなく剥き出しになっている首の中では、切れない果物ナイフですっぱりと切り裂かれたザクロみたいに柔らかそうなピンク色の肉塊が、ホイップクリームのような白い脊椎骨をふんわりと優しく抱き締めている。その光景ときたら、まるでイチゴのクリームをたっぷりと塗られたロールケーキみたいで、思わずかぷっとかぶりつきたくなるほどおいしそう。なので、思わずかぷっとかぶりついてみると、ザクロの酸味の香る柔らかいスポンジケーキが犬歯の先でぽろぽろとほどけて、微かに焦げたようなバターの香ばしい風味とバニラエッセンスの味わいが口の中でぱあっと広がった。私は思わず目を閉じて、もごもごと蠢くほっぺたの表面に手を当てると、その美味の奔流に身を委ねる。雲みたいにふわふわのホイップクリームがすうっと身体に染み入って、あとに残ったのは気の狂いそうなほど濃厚な甘みの百花。その開けた蕾の中から、ストロベリーのシロップが喉の奥めがけてトロトロと流れこんでくる。ん、ん、ううん、甘くておいしい、おかしくなっちゃいそう。私が夢中になってごくごくと嚥下していると、飲み切れなかった赤色の甘露が唇の端からたらりと糸を引いて零れ落ちて、私のきれいな制服を赤く染めあげた。おそろいだね、私たち。悪戯げにくすくすと笑いながら、そよ風のように小さな声でそっと、彼女の首元に囁いてみる。もちろん、彼女からの返事はなかった。
 はあ、ふう、ごちそうさま、もうお腹いっぱい。私は根元までなくなっちゃった彼女の首ににこりと微笑んで告げると、彼女に寄せていた身体を蛇みたいにゆるりともたげて、彼女の目のない視線と正面から向かい合った。目の奥の網膜をすんなり通り越して脳裏にまでぶすりと突き刺さるほどの鮮烈な果汁の香りは、限りがないかのように止め処なく彼女の首から流れ落ちていて、それはそう、まるで噴水みたい。一寸のずれもなく木板を敷き詰められたフローリングの床の上には、彼女を中心に据えた真っ赤な魔法の鏡が泉のようにどくどくと広がっている。ああ、そうだ、そういえば、トレヴィの泉なんかはコインを投げ入れたら願いが叶うらしいけれど、この泉にも、コインを投げ入れたら願いが叶うのかしら。試してみようかな。うん、試してみよう。私は好奇心に揺り動かされるかのようにふと思い立って、自分の制服のポケットの中に手を突っ込んでがさごそと探ってみるけれど、そこにはただの一枚のコインすらも入っていない。なあんだ、つまんないの。けれど、代わりに入っていたのはクシャクシャに丸められた紙きれだった。おやおや、なんだろうね、これは。私はこくりと首を傾げると、海賊の船長が宝の地図でも眺めるかのように厳かに、その紙きれをぱあっと広げてみる。それはどうも、切り取られたノートの一ページであるらしい。使い古されているのかところどころ黒ずんで汚れている白い紙面の上には、まっすぐにぴんと背筋を伸ばした行線たちが規則正しく折り重なっている。けれど、その真ん中を躊躇なく貫いているアルファベットの文字列は、まるできちっと整列した彼らの勤労をけらけらと嘲笑うかのように、ノートの法則をただただ無視して乱雑に描かれていた。

 ”Who am I?”

 私は誰? 私は瞳をひとつ、ぱちぱちと瞬かせる。クイズかな。クイズだね。私は誰でしょう。答えは。知らない。私の名前は。知らない。私ってどんな声してたっけ。私ってどんな顔してたっけ。どれが私なんだっけ。ああ、これかな。こんな感じかな。そうだよ、合ってる合ってる。いや、違うよ。違うの。ほら、見てみようよ。私は床に広がる魔法の鏡を覗きこんだ。そこには、目も口も鼻もない、のっぺらぼうの女の子が映りこんでいる。顔、ないじゃん。じゃあ、作っちゃおう。そう。そうだね。眼は。サファイアみたいに青い目。きれいだね、じゃあ、鼻は。小さくて、うん、ちょっと低いかな。口。桜色のぷるんとした唇。肌は。透き通るみたいに真っ白。ああ、忘れちゃあいけない、髪、髪の毛は。金髪、金色の髪。できたかな。できたできた。これが私。そうだよ、これが私。ふうん、可愛いじゃん。へえ、きれいだね。
 私がきゃっきゃと楽しんでいると、そこに、無粋な音がひとつ。ばさっ、ばさっ、ばさっ、ばさっ。ああもう、うるさいなあ。さっきからカラスの羽音が騒がしい。闇よりも黒い不吉の羽が私の目の前をちらちらと舞い踊る。ああ、汚い、私は思わず眉をひそめた。回転木馬のようにくるくる回りながら舞い降りる羽の行方をじいっと視線で追いかけていると、羽は自分を抱き締めるように交差された彼女の腕の中にすうっと落ちていく。そこには一冊の本がすっぽりと収められていた。表紙の上に透き通った湖の広がる可愛らしいノート。これは彼女のノートなのかな。いったい中には何が書いてあるんだろうねえ。私は邪魔な黒い羽をぱっぱと払い落として、好奇心の唆すままにそのノートを手に取った。
 きれいな水色の表紙の真ん中には、小さくて可愛らしい手描きのうさぎのイラストがじいっと大人しく佇んでいる。白い毛並みがまるでマシュマロみたい。そのぺたんと押しつけられたまんまるのお尻の下には、グミみたいに柔らかくて丸みを帯びた文字がぷかぷかと浮かんでいる。

 ”ALICE”

 ありす。私の唇の隙間から思わず零れたその言葉は、なんだか舌足らずで、ひどく子どもっぽく聞こえる。私はその言葉を口の中でキャンディのようにころころところがしながら、壊れたオルゴールみたいに何度も何度も呟いてみた。はじめはわたがしみたいにふわふわしていて曖昧だった言葉の輪郭がだんだんと、スカスカの骨組みに粘土の肉をぺたぺたとくっつけたかのように明瞭になっていく。アリス、アリス、アリス、アリス……。名前。誰かの名前じゃあないかな。へえ、誰の。それはきっと、そう、私の。私。そう、私。ふうん、私はアリスっていうんだね。いい名前でしょ、私もそう思うよね。私の名前はアリス。うんうん、いい感じ。アリス。アリス。私はアリス。私の名前はアリス。強烈なアルコールの香りに酩酊したかのように朦朧としていく意識の中で、座りこんでいた白うさぎのイラストがぴょこんと立ち上がり、奥へ奥へと駆けていくのが見えた。どこに行くのかな。どこに行くんだろうね。私は遠くへと走っていく白うさぎを追いかけて、湖の中に思いきり飛びこんだ。夜空みたいに深く暗い湖の底は、まるで終わりのないうさぎ穴のよう。私の意識はどこまでも、どこまでも、長い長い物語の穴へと落ちていく。

 

 

 

 

※この作品はカクヨムにも投稿しています。

ごちそうさま。

 箸で運んだ肉を奥歯の平で噛み締めると、果実を絞ったかのように肉汁が中から溢れ出す。咀嚼すれば口内で繊維が蕩けて、角砂糖みたいにほろほろと崩れた。ごくん。喉を鳴らして呑み込めば、微かな甘みがほわっと広がるとともに咽喉を流れ、食道をずるずると進み、胃袋の中にたっぷり詰まった胃液のプールにぽちゃんと飛び込む。味蕾に残る濃密な味の余韻と胃袋が満たされた幸福感が胸を膨らませて、私の頬は自然と緩んで笑みを浮かべた。んん~、あまりのおいしさにほっぺたが落ちちゃいそう。私は自分の頬が落ちないように両手で押さえて、頭の中に染み渡る恍惚のアルコールに酔いしれた。ああ、おいしいな、おいしいな。

 「ごちそうさまでした」

 手を合わせてお決まりのあいさつ。そうして、初めて私は目の前の二つの優しい瞳がじいっと私を見つめていることに気がついた。まさか、ずっと見られていたの。はしたなく大口を開けて肉にかぶりついたところも、だらしなく頬を緩めてしまっているところも。私は途端に恥ずかしくなって、きっと林檎のように赤くなっている顔を俯かせて長い前髪の陰に隠した。ああ、もう。恥ずかしくて顔で目玉焼きが焼けちゃいそう。

 「ふふ、おそまつさまでした」

 おいしかった? 幼子を慈しむかのような彼のやわらかな微笑みに、私は赤い顔のままこくりと頷く。よかった、口に合ったみたいで。彼は嬉しそうに、けれどどこかほっとしたような色を滲ませて笑った。やっぱりおいしいかどうか心配になるんだろうな、料理を他の人に食べさせるのは。料理を作るのが苦手な私には、きっとこれからもわからないことなのだろうけれど。

 「みっちゃんはいつもとてもおいしそうに食べてくれるから嬉しいね」

 だって、本当においしいんだもん。彼と付き合い始めてから、体重が少し増えてしまった。お腹もこころなしかマシュマロみたいにぷにぷにしている気がする。やばいかな、そろそろダイエットでもしないと。

 「前もやるって言って三日で諦めてなかったっけ」

 みっちゃん、運動とか苦手だもんねえ。呆れたように苦笑する彼に、私は反論の言葉をごくりと呑み込んだ。あれは、だって、その。言い訳が口から飛び出しては、力なく零れ落ちて溶けていく。結局、へたれな私は彼の呆れの表情から逃げることしかできなかった。

 「あ、洗いものするね」

 「うん、よろしく」

 私が言った瞬間に浮かんだ彼の申し訳なさそうな表情に、思わず私は失敗したなと心の中で反省した。今さっきまで噛み締めて味わっていた幸福感を思わず呑み込んでしまいそうなほど。

 彼は世話焼きだ。付き合った相手をパティシエみたいにでろでろに甘やかすことが何よりも楽しいらしい。けれど、今の彼はもう、洗いものすらも一人ではできない身体になってしまった。そのことに後悔はしていないみたいだけれど、私に任せっきりになてしまうことがひどくもどかしいらしい。彼らしい、どこまでも優しい悩み。けれど、不謹慎とは思うけれど、私はほんの少し嬉しさを感じていた。人のために何かをすることがこんなに嬉しいだなんて、きっと彼と付き合わなければずっと知らないままだったんだろうなあ。洗いものだって面倒くさがっていただろう。それとも、大好きな彼だからこそこんな気持ちになるのだろうか。まあ、私がこんなことを考えているなんて、彼はどうも気づいていないみたいだけれど。

 「ごめんね、全部押しつけちゃって」

 「気にしないで。このくらいは動いておかないと、私、本当にナマケモノになっちゃうよ」

 謝る彼を元気づけようと、私はわざと冗談めかして言う。みっちゃんだったら、マケモノになってもきっと可愛いんだろうなあ。そうしたら、彼がさらっとそんなことを言うものだから、私は何よそれと笑ってあげた。顔、赤くなってない、よね。うん、やっぱり好きだなあ、彼のこと。好き、好き、大好き。食べちゃいたいくらい。どうすれば、このフランベみたいに燃え上がっている私の想いを伝えられるのだろう。

 私は彼の顎に手を添えて、唇にキスをした。これで、伝わるかなあ、私の想い。もっと食べたい気持ちを我慢して唇を離す。つまみ食いって囁いて悪戯げに微笑むと、いつも余裕たっぷりな彼が珍しく耳まで真っ赤に色づけされていた。恥ずかしさと嬉しさの入り混じった彼のその表情を見つめていると、もうどうにも胸がたまらなくなって、彼の頭を思いきり抱き締める。唇に残っているキスはイチゴのように甘くて酸っぱい恋の味がした。

 

 

 彼との出会いは高校二年生の時。じりじりとオーブンで焼かれるような暑い夏だった。すり鉢みたいなスタジアムの席で、表も裏もじっくりとトーストされながらの野球部の応援はひどく億劫で。けれど、私だけだらけるというのも、なんだかみんなにも野球部にも申し訳ないし。そんなことを考えて必死に我慢していたものだから、気がついたら仰向けになっていて、おまけに話したこともない男の子に顔を覗き込まれていた時は何事かと思った。つまるところ、私はあまりの暑さに倒れてしまって、日陰に移動させられていたらしい。彼はそんな体調の悪い生徒を介抱する委員だった。

 「はい、これ、飲みなよ」

 「……ありがとう」

 彼から差し出されたのはスポーツドリンク。私はまだぼんやりする頭でそれを受け取った。ペットボトルの口にそっと唇を当てて傾けると、すうっと透き通る爽やかな清涼感が喉に流れ込んできて、熱く蕩けていた私の身体の芯をふぅふぅ冷ましていく。ほっと一息ついたら彼が穏やかな笑みを浮かべて私を見つめていたことに気がついて、今更ながら恥ずかしくなってしまった。ほら、せっかく冷ましたのに、もう暑い。彼のせいで。

 「驚いたよ、突然倒れたから」

 だいじょうぶ、なんて。彼はそう言って私の額に手を当てる。白魚みたいにしなやかで、それなのに、女の私の手よりも大きくて力強い手。私がびっくりして餅のようにカチコチに固まってしまったことに気がついたのか、彼はごめんごめんと慌てて手を離した。私も恥ずかしさで俯いて、いや、その、気にしないで、ありがとう、と聞こえもしないような小さな声でもごもごと呟く。あの頃は青かったなあ、二人とも。まるで成熟していない果実のようだった。

 彼は勉強もスポーツもよくできて、それでいて優しかったし、おまけにかっこよかったから女の子たちから人気があって。私もひそかに憧れていた。いざこうして近くで見ると、彼は本当にかっこよくて。熱中症は治ったはずなのに、今にも鼻血が出そうなくらい顔が熱かった。とか思っていたら、彼は柔らかく微笑んでいた顔を少し厳しく引き締める。あれ、お、怒らせちゃったかな。私が身を縮めて固くなっていると、彼は途端にふっと笑って私の額をぱちっとデコピンした。

 「ダメだよ。身体の具合が悪いならちゃんと言わなくちゃ」

 「だ、だって、まさか倒れるとは思わなくて」

 「言い訳しない」

 「は、はい、すみませんでした……」

 よろしい。力なく肩を落とす私の頭を、彼はその大きな手でふわりと撫でる。まるで大切なものを扱うかのようなその優しい手のひらに、私の恥ずかしさは一気に沸点を超えてしまって、その後の記憶は残っていない。けれど、なんだかひどくどもりながらお礼を言って、大慌てでみんなのところへ戻っていった気がする。その後にみんなから、彼が倒れた私をお姫様抱っこして運んでいったと聞かされて、野球応援中ずっと顔の熱が引かなかったのは内緒の話。まあ、それから彼に告白されて恋人同士なるものになっちゃうわけなのだけれども。

 それにしても、あの日はみっちゃんみたいに具合が悪くなって倒れる女の子が多かったなあ。思い出すような目でぼやいているけれど、それ、間違いなくあなたのせいだからね。

 「そういえばさ、みっちゃん、あの時のスポーツドリンク、覚えてる?」

 「覚えてるよ」

 「あれ、実は僕のなんだ。間接キスだね」

 「……あまり話したこともない女子に間接キスさせるってどうなの」

 そうは言うけれどさ、みっちゃん、顔赤いよ。いたずらが成功した子供みたいに無邪気な表情でしてやったりと笑う彼を、私はじろりと睨みつける。でも、そんなに嬉しそうに微笑まれると、怒りなんてどこかに吹っ飛んじゃうんだから彼はずるい。彼との初めての間接キスは清涼飲料水のような爽やかな青春の味がした。

 

 

 彼は料理が趣味らしいというのは、付き合い始めてから知ったもの。しかも、その腕前は私のお母さんにも匹敵するほどおいしくて、付き合い始めの頃は女としての自信を軽く喪失しかけていた。彼の将来の夢は自分の得意料理を好きな人に食べてもらいたいという、なんとも乙女チックなもので。高校時代の私の昼食はいつも彼の作ってくれたお弁当。男を捕まえるには胃袋からなんて言うけれど、私はまんまと捕らえられてしまった。彼の溢れんばかりの女子力が眩しい。ほんの少しでも、分けてくれないものかなあ。私は自分で料理しようとしてダークマターを量産するたびに、そんなことを思っていた。

 彼の脛は輪切りにされてトマトと白ワインとブイヨンで煮込まれて。オッソ・ブーコっていう料理らしい。よく煮込まれた彼の脛には骨の髄まで味が染みて、噛み締めるとじゅわぁっと口の中で広がった。付け合わせとして一緒に添えられていたミラノ風のリゾットと合わせて食べると、なおさらたまらない。腿はビーフストロガノフに。サワークリームの酸味と濃厚な味のバターライスが絡み合って、柔らかい彼の腿を活かしていた。彼が言うには、一本の足でも場所によって味や硬さに違いがあるんだって。おいしく食べてもらいたいからね、頑張って勉強したんだよ。彼は照れたように言って笑う。

 胃とか腸とかはまとめてもつ鍋になった。見た目はとってもグロテスクで、私はちょっと苦手だったけれど。意を決して食べてみると、コリコリと面白い食感が歯に伝わってきて、気がついたら止まらなくなり、次々と口の中に放り込んでいた。ニンニクと鷹の爪がよく効いていて、なんとも香ばしい。あっという間に食べ終わって、しょぼんと肩を落として余ったスープを見つめていると、彼がそこに放り込んだのはたっぷりのちゃんぽん麺。ふふふといたずらが成功したみたいに笑う彼の笑顔は少年のように可愛くて。顔を赤くして食べたちゃんぽんは汁に溶けた彼のもつの旨味をいっぱい呑み込んでいて、鍋がからっぽになるまで食べてしまった。

 でも、一番おいしかったのは、やっぱり彼の腰の肉のステーキ。クリスマスを二人でお祝いして食べた。大きなローストチキンじゃなくてごめんね、なんて彼は言っていたけれど、私にとって彼の肉は鶏なんかよりもずっと、ずっと、特別な感じがして。柔らかい肉の繊維を犬歯でぷちぷちと噛み切ると、口の中に彼がふわっと溢れて出てきた。それはまるで彼のキスが私の口を蹂躙しているかのようで、なんだか不思議な気分になったのを覚えている。

 料理をするために、彼は腕を最後から二番目まで大事に取っていた。それが昨日の、皿いっぱいに乗った唐揚げの山。でも、脂っこい揚げ物ばっかりじゃあ食べるの大変でしょ。そんな彼の気遣いから、添えられたのはひんやり冷たい棒棒鶏。もちろん、鶏の肉なんかじゃあなくて、入っているのは彼の胸肉だ。私を力強く抱きしめてくれていた腕と胸。それがこんなにおいしくなるなんて。私は感動にうち震えながら、口に運んだ。

 彼が初めて手料理をふるまってくれたのは、私と彼が付き合って最初の私の誕生日。僕の心をみっちゃんにあげるよ。そんなプロポーズみたいな言葉を一緒に添えて、彼は自分の心臓の刺身を作ってくれた。僕の心はいつまでも鮮やかなままで、みっちゃんの中に残っていることを感じてほしいから。驚きと嬉しさとが入り混じって、あたふたと赤くなる私に、彼はいつも通りさらっとそう言った。いや、当時は動揺して気がつかなかったけれど、今思い出してみると彼の耳も真っ赤になっていたなあ。きっと、さすがの彼も恥ずかしかったのだろう。そんなところも可愛くて、なおいっそう好きになっていく。彼の心はチョコレートみたいに甘くて苦い愛の味がした。

 

 

 「さあ、召し上がれ」

 平皿の上に乗った彼は、にこりと微笑んでそう言った。いただきます。手を合わせた私に、彼はいただかれますと冗談めいた言葉を返す。二人で顔を見合わせると、なんだかとてもおかしくなって、ふっと噴き出して笑い合った。彼のかたわらには小さな赤いプチトマトと甘く煮たニンジン、そしてほくほくのマッシュポテトが添えてある。彼の指示を聞きながら私が添えたものなのだけれど、彼の隣にいるそれらにほんの少しだけ嫉妬した。

 「とうとう首だけになっちゃったね」

 「そうだね」

 やっと叶う、僕の夢。好きな人に、食べてもらえる。彼は嬉しそうに首だけの身体で笑った。もう彼の、私を撫でてくれたあの優しい手はない。長くてスマートな足もなくなっちゃった。抱き着く私をたくましく受け止めてくれたあの広い胸も、細いように見えて意外と筋肉があるあのお腹も、もうきれいさっぱりなくなっている。

 「あ、ひとつお願いがあるんだ」

 「なに?」

 「僕の目を食べるのは最後にしてくれないかな」

 最後のその瞬間までみっちゃんを見ていたいんだ。だって、僕はみっちゃんがおいしそうに食べている姿が一番好きだからね。かあっと私の顔に熱が昇ってくる。なんだって、彼はこんなにも甘い言葉をさらっと言えるんだろうなあ。こくりと頷きながらそんなことを思う。

 彼の脳みそをスプーンですくい取ると、プリンみたいにぷるぷると震えた。バニラクリームのような濃厚な味が私の心を満たしていく。甘い、甘い、とっても甘い。今まで食べたどんなスイーツよりもそれは甘かった。

 「甘いでしょ、僕の脳みそ」

 なにせ、みっちゃんへの好きがいっぱい詰まっているからね。私は熱に浮かされたようにこくりと頷いて、一心不乱に食べる。ああ、やっぱり嬉しいなあ。みっちゃん、僕ね、ずっとみっちゃんが食べているものに嫉妬していたんだよ。それはもう、食べられている自分の身体にすらも。だって、みっちゃん、食べている時ってそのものしか見えていないんだもの。恋している時みたいに真っ赤な顔して、抱かれている時みたいに甘い息を吐いてさ。だから僕は君を好きになったんだ。彼がそう言っているのが遠くに聞こえた。私の視線にはもう彼しか映っていない。この広い世界の中で、私は食べちゃいたいくらい大好きな彼と二人きり。

 ちゅっとキスをするように彼の唇をついばむ。ゼリーみたいにぷにぷにした、彼の唇。いつも甘い砂糖の言葉をふりかけられているからか、頭がくらくらするほど甘い。最初は軽く、触れるだけ。でも、少しずつ、少しずつ、激しくして。私はもう、彼を食べているのか、彼に食べられているのかわからなくなった。甘やかなキスを繰り返しながら、とうとう私は彼の唇をつるりと呑み込む。彼は私の喉に吸いつきながら、愛しているよと囁いた。

 約束通り、最後に残った彼の瞳と見つめ合う。恍惚に濡れた彼の瞳は、まるで私に泣かないでって言っているかのようだった。私はいつの間にか濡れていた頬にそっと手を当てる。ぽろぽろと零れていく涙が止まらない。好き。好き。大好き。食べちゃいたいくらいに大好き。でも、食べちゃったらあなたはいなくなっちゃう。寂しいよ。悲しいよ。駄々をこねるみたいに泣き叫ぶ私に、彼の瞳はそっと囁く。みっちゃん、違うよ。僕はいなくならない。ひとつになるんだ。今までよりもずっと、ずっと、一緒にいられる。だから、ね。僕を食べてよ。ひとつも残さず。私はうんうんと頷いて、彼の目玉をスプーンの上に乗せる。頬を伝って激しく流れる涙をそのままに、私は彼をそっと口の中に入れた。ココナッツみたいな甘さが愛おしくて。けれど、私の涙がしょっぱくて。アイスクリームみたいな冷たさはかっこよくて。けれど、こりこりした食感がなんとも言えず可愛らしい。それは彼そのものだった。大好きな彼そのものだった。ああ、いつまでも、いつまでも、こうしていたい。けれど、いつかは終わりがくるもので。つるりと自分から滑りこむように、彼は私とひとつになった。

 「うっ……ひっく……ぐすっ……」

 涙が溢れてきて声も出せない私を、彼の想いがふわりと包んで抱きしめる。いつも彼がしてくれるみたいに、私の頭をよしよしと幼い子供にするように優しく撫でて。それはまるでいつでもそばにいるよって言ってくれているかのようだった。だから私は、頑張って微笑んで、おいしかったって。彼に。

 「……ごちそうさま」

 私の一番大好きで一番愛おしい彼は、好きの想いのように甘いけれど、涙のようにしょっぱいお別れの味がした。

 

 

 

 

 

※この作品はカクヨムに投稿している小説を加筆・修正したものです。