ALICE

 ギャア、ギャア、ギャア、ギャア……。頭の中にカラスの嬌声がこだまする。私は窓際の、前から三番目の席で頬杖をついて、そのなんとも不愉快なトロイメライにそっと耳を傾けていた。ほろほろと崩れ落ちる夕日の明かりが窓の向こう側からハチミツのように溢れ出して、私の左頬をきらきらと温かく照らしている。ショコラのように甘やかな微睡みがすうっと醒めていくにつれて、頭の片隅にほんのちょっとだけ残っていた長い長い夢の余韻が、チーズみたいにとろりと蕩けて消えていった。まだ、もうちょっと……。もうちょっとだけ……。口の中でもごもごと呟きながら目を閉じようとする私の目の前を、瑞々しいベルガモットの香りが羽虫みたいにふわりふわりと飛び回る。虹のような鮮やかな七色にひらひらと輝く蛇みたいな身体には、蝶々のような白い翅が四枚、ゆったりとしたその軌跡には宝石みたいにきらきらと光る鱗粉が天の川のように流れていた。思うがままに鉄柵のひとつもない空の中をゆうらりゆうらりと泳ぎ回るその姿は太陽のように眩しくて、それでいて、心中が煮えくり返りそうなほどに煩わしい。あんまりにも煩わしいものだから、思わず左の手をぐいと伸ばして掴み取ると、羽虫はぷぎゃあと無様な悲鳴を上げてぷちっと潰れた。おかしな悲鳴、私はひひひと笑顔を零す。きっと、潰れた姿も心底おかしいんだろうなあ。私は内心わくわくしながら握り潰した五指をそっと開いて手のひらを見てみるけれど、そこには私のうっすらと薄い生命線が伸びているだけで、他には何もない。あれあれ、おかしいな、たしかに掴んだはずなのだけれど。私は首をこてんと傾けて、手のひらに鼻孔をすっと寄せると、途端、風船みたいにぱちんと弾けた柑橘のようなフレッシュな香りが私の脳髄をさわさわとくすぐる。おかげでからっぽの胸中を埋め尽くしていた抗いがたい眠気のナイフがきれいさっぱり消えちゃって、ぼんやりと白い靄のかかっていた頭の中も今では眼鏡をかけた時のようにはっきりしていた。きっと見ていたであろう長い夢の記憶なんて、もう、ティースプーンひと匙ほども残っていない。私はううんと思いきり身体を反らして伸びをしてみる。節々にひしひしと響く針みたいな微かな痛みが、なぜだかとっても心地良かった。
 ぴんと張りつめていたピアノ線を解き放つかのようにため息ひとつ吐き出して、ほうとひと心地ついたところで私は首を回して辺りをきょろきょろと見渡してみる。うっすらと仄暗い茜色のペンキに染められた教室には、私と、もうひとり、女の子がいた。彼女は木製の教卓の硬そうなお腹にゆったりともたれかかって、じいっと黙ったまま座っている。目も眩むほど真っ赤な模様の刻まれた前衛的な意匠の制服が、窓の外からのぞかせる夕焼けの瞳に見つめられて、深海魚の鱗のようにテラテラと妖しく光っていた。あれあれ、もしかして眠っているのかな。私は気付かれないように彼女の顔を覗きこんでみようとしたのだけれど、よくよく見てみると彼女にはまるごと頭がなかった。もしもーし、聞こえますかあ、聞こえてますかあ。手をブンブン振りながら声をかけてみたけれど、彼女からの返事はない。あらら残念、でもまあ、仕方ないのかも、なにせ彼女には目も耳も口もないからね。裸体を公衆に晒けだすかのようにはしたなく剥き出しになっている首の中では、切れない果物ナイフですっぱりと切り裂かれたザクロみたいに柔らかそうなピンク色の肉塊が、ホイップクリームのような白い脊椎骨をふんわりと優しく抱き締めている。その光景ときたら、まるでイチゴのクリームをたっぷりと塗られたロールケーキみたいで、思わずかぷっとかぶりつきたくなるほどおいしそう。なので、思わずかぷっとかぶりついてみると、ザクロの酸味の香る柔らかいスポンジケーキが犬歯の先でぽろぽろとほどけて、微かに焦げたようなバターの香ばしい風味とバニラエッセンスの味わいが口の中でぱあっと広がった。私は思わず目を閉じて、もごもごと蠢くほっぺたの表面に手を当てると、その美味の奔流に身を委ねる。雲みたいにふわふわのホイップクリームがすうっと身体に染み入って、あとに残ったのは気の狂いそうなほど濃厚な甘みの百花。その開けた蕾の中から、ストロベリーのシロップが喉の奥めがけてトロトロと流れこんでくる。ん、ん、ううん、甘くておいしい、おかしくなっちゃいそう。私が夢中になってごくごくと嚥下していると、飲み切れなかった赤色の甘露が唇の端からたらりと糸を引いて零れ落ちて、私のきれいな制服を赤く染めあげた。おそろいだね、私たち。悪戯げにくすくすと笑いながら、そよ風のように小さな声でそっと、彼女の首元に囁いてみる。もちろん、彼女からの返事はなかった。
 はあ、ふう、ごちそうさま、もうお腹いっぱい。私は根元までなくなっちゃった彼女の首ににこりと微笑んで告げると、彼女に寄せていた身体を蛇みたいにゆるりともたげて、彼女の目のない視線と正面から向かい合った。目の奥の網膜をすんなり通り越して脳裏にまでぶすりと突き刺さるほどの鮮烈な果汁の香りは、限りがないかのように止め処なく彼女の首から流れ落ちていて、それはそう、まるで噴水みたい。一寸のずれもなく木板を敷き詰められたフローリングの床の上には、彼女を中心に据えた真っ赤な魔法の鏡が泉のようにどくどくと広がっている。ああ、そうだ、そういえば、トレヴィの泉なんかはコインを投げ入れたら願いが叶うらしいけれど、この泉にも、コインを投げ入れたら願いが叶うのかしら。試してみようかな。うん、試してみよう。私は好奇心に揺り動かされるかのようにふと思い立って、自分の制服のポケットの中に手を突っ込んでがさごそと探ってみるけれど、そこにはただの一枚のコインすらも入っていない。なあんだ、つまんないの。けれど、代わりに入っていたのはクシャクシャに丸められた紙きれだった。おやおや、なんだろうね、これは。私はこくりと首を傾げると、海賊の船長が宝の地図でも眺めるかのように厳かに、その紙きれをぱあっと広げてみる。それはどうも、切り取られたノートの一ページであるらしい。使い古されているのかところどころ黒ずんで汚れている白い紙面の上には、まっすぐにぴんと背筋を伸ばした行線たちが規則正しく折り重なっている。けれど、その真ん中を躊躇なく貫いているアルファベットの文字列は、まるできちっと整列した彼らの勤労をけらけらと嘲笑うかのように、ノートの法則をただただ無視して乱雑に描かれていた。

 ”Who am I?”

 私は誰? 私は瞳をひとつ、ぱちぱちと瞬かせる。クイズかな。クイズだね。私は誰でしょう。答えは。知らない。私の名前は。知らない。私ってどんな声してたっけ。私ってどんな顔してたっけ。どれが私なんだっけ。ああ、これかな。こんな感じかな。そうだよ、合ってる合ってる。いや、違うよ。違うの。ほら、見てみようよ。私は床に広がる魔法の鏡を覗きこんだ。そこには、目も口も鼻もない、のっぺらぼうの女の子が映りこんでいる。顔、ないじゃん。じゃあ、作っちゃおう。そう。そうだね。眼は。サファイアみたいに青い目。きれいだね、じゃあ、鼻は。小さくて、うん、ちょっと低いかな。口。桜色のぷるんとした唇。肌は。透き通るみたいに真っ白。ああ、忘れちゃあいけない、髪、髪の毛は。金髪、金色の髪。できたかな。できたできた。これが私。そうだよ、これが私。ふうん、可愛いじゃん。へえ、きれいだね。
 私がきゃっきゃと楽しんでいると、そこに、無粋な音がひとつ。ばさっ、ばさっ、ばさっ、ばさっ。ああもう、うるさいなあ。さっきからカラスの羽音が騒がしい。闇よりも黒い不吉の羽が私の目の前をちらちらと舞い踊る。ああ、汚い、私は思わず眉をひそめた。回転木馬のようにくるくる回りながら舞い降りる羽の行方をじいっと視線で追いかけていると、羽は自分を抱き締めるように交差された彼女の腕の中にすうっと落ちていく。そこには一冊の本がすっぽりと収められていた。表紙の上に透き通った湖の広がる可愛らしいノート。これは彼女のノートなのかな。いったい中には何が書いてあるんだろうねえ。私は邪魔な黒い羽をぱっぱと払い落として、好奇心の唆すままにそのノートを手に取った。
 きれいな水色の表紙の真ん中には、小さくて可愛らしい手描きのうさぎのイラストがじいっと大人しく佇んでいる。白い毛並みがまるでマシュマロみたい。そのぺたんと押しつけられたまんまるのお尻の下には、グミみたいに柔らかくて丸みを帯びた文字がぷかぷかと浮かんでいる。

 ”ALICE”

 ありす。私の唇の隙間から思わず零れたその言葉は、なんだか舌足らずで、ひどく子どもっぽく聞こえる。私はその言葉を口の中でキャンディのようにころころところがしながら、壊れたオルゴールみたいに何度も何度も呟いてみた。はじめはわたがしみたいにふわふわしていて曖昧だった言葉の輪郭がだんだんと、スカスカの骨組みに粘土の肉をぺたぺたとくっつけたかのように明瞭になっていく。アリス、アリス、アリス、アリス……。名前。誰かの名前じゃあないかな。へえ、誰の。それはきっと、そう、私の。私。そう、私。ふうん、私はアリスっていうんだね。いい名前でしょ、私もそう思うよね。私の名前はアリス。うんうん、いい感じ。アリス。アリス。私はアリス。私の名前はアリス。強烈なアルコールの香りに酩酊したかのように朦朧としていく意識の中で、座りこんでいた白うさぎのイラストがぴょこんと立ち上がり、奥へ奥へと駆けていくのが見えた。どこに行くのかな。どこに行くんだろうね。私は遠くへと走っていく白うさぎを追いかけて、湖の中に思いきり飛びこんだ。夜空みたいに深く暗い湖の底は、まるで終わりのないうさぎ穴のよう。私の意識はどこまでも、どこまでも、長い長い物語の穴へと落ちていく。

 

 

 

 

※この作品はカクヨムにも投稿しています。