誘惑

 学校の屋上から見下ろす地面は遥か遠い。それはまるでどれほど手を伸ばしても届かない夕暮れの空のように。けれど、きっと、それは遠く見えるだけで、本当は思ったよりも近いのだろう。ほら、ほんのちょっと、手を。手を伸ばせば。花壇やアスファルトがひび割れて、土の底がぽっかりと大きな口を開ける。険しい凹凸はまるで獣の牙のよう。暗い虚無の奥底から皮と肉のこそげ落ちた骨だけのゆるりと伸びて、私においでと手招きをした。ここから落ちたら、きっと。そう、きっと。私の頭の中の理性が熱に浮かされたように溶けて、チョコレートみたいな苦い妄想が広がっていく。耳の奥を本能の鳴らす警鐘がこだましていた。けれど、気にするほどの騒音じゃあない。

 何かが私の背中を押した気がした。いや、気のせいかもしれない。だって背中を押したのは私なんだもの。私の期待と興奮が私の背中を押したんだ。私のローファーの靴底は屋上のコンクリートを蹴って、空を踏む。一歩、二歩、三歩。私は空にある透明な階段を下へ、下へと駆け下りていく。手を大きく広げたら、私もあの鳥のように。あれほど遠くにあった空が、私の手のひらの中にある。私は嬉しくなって、思わず笑みを浮かべた。前を見ると、どれだけ手を伸ばしても届かなかった地面が、さっきよりもずっと近くにある。それはちょっとずつ、ちょっとずつ近づいてくる。世界は私を受け止めようと、その両手を広げていた。その胸はこの学校にいるどの男の子よりも広くてたくましい。飛び込もう。彼の腕の中に。彼はきっと抱きしめてくれるから。

 あと少し、あと少し。ああ、伸ばした手の、指先が触れた。私は彼の中で水みたいに溶け合って、世界とひとつになっていく。指が、腕が、目が、鼻が、口が、肩が、胸が、腹が、腰が、脚が、爪先が。潰れて、砕けて、飛び出て、弾けて。私の意識は暗闇に消えて、やがて何も残らない。みんなはどんな反応をするのかな。女の子が甲高い悲鳴を上げて。男の子は顔を歪めて。誰か泣いてくれるかな。パパとママは泣いてくれるかな。先生が形だけのお悔やみの言葉を言って。それで、みんなが私のために黙祷するんだ。私の席には花瓶があって。白い花が良いな、好きだから。ああ、いや、でも、そうだね。誰も私のことを気にしないっていうのもいいなあ。登校する人たちが私をちらっと一瞥だけして。親も、友達も、先生も、クラスメイトも、いつも通りの日常を過ごすんだ。私がいない世界で。いいね、最高じゃん。

 ぐいっと身を乗り出した私を、落下防止の鉄製の柵がぎゅっと力強く抱きしめる。ぐえっと思わず乙女らしくない声が出た。私は柵を憎らしげに睨みつけるけれど、彼はしれっとした顔で役目は果たしたと自慢げに言うだけ。甘美な悪夢は余韻だけ残して消え去って、理性の私が声を荒立てて説教している。私はその声を聞き流しながら、自分の胸に手を当てた。少しだけ膨らんだその胸の奥底では、私の生きている音がマグマのように脈動している。昼休みが終わるチャイムの音が鳴り響いた。ああ、早く教室に戻らなくちゃ。私は授業に遅れないようにちょっとだけ駆け足で屋上の扉を閉めた。

 

 

 駅前のクレープがおいしいという話とか。隣のクラスにかっこいい男の子がいるっていう話とか。そんなくだらないけれどなぜか楽しい友達との談笑を終えて、私は駅の改札口をくぐった。無数の人の群れ。彼らはひとりひとりが生きているはずなのに、その列はまるで意思を持たない一匹の大きなヘビみたい。私もその中のひとりだった。黄色い声で笑い合う女子高生とか、空虚な瞳で携帯をのぞくサラリーマンとか、いったい何を考えて生きているんだろう。私はいったいどうして生きているんだろう。

 無機質な女の人の声のアナウンスが響く。あと少しで電車が来る。私の前にはでこぼこした黄色い線が横切っていた。この線は生と死の境界線だとしたらどうだろう。この線を越えたら、私はきっと。そう、きっと。電車は巨大な鉄の怪物だ。身の毛もよだつような恐ろしいうなり声をあげて、線路の上を風みたいに駆け抜けていく。その前に身を投げ出せば、私の身体はどんなふうになるだろう。ぺちゃんこになるのかな、それともばらばらになるのかな。そんなことはどっちでもいいんだけれど。鉄のかたまりは私みたいなちっぽけな女の子なんて瞬く間に食い散らかしていくのだろう。

 「行かないのか」

 背後に立ったスーツ姿の骸骨が私の耳元にささやきかける。彼は決して背中を押してきたりはしなかった。ただ、行かないのかと楽しげにささやくだけ。彼は私が自分から足を踏み出すのを待っていた。黄色い線の向こう側に。けれども、きっと、そこは彼らの側なのだろう。足を踏み出したら、もう二度と、こちらには戻ってこられない。生唾を呑み込むと、ごくりと大きな音が鳴った。私は足を一歩、前に踏み出す。あの黄色い線の先へ。線路の上に立ち尽くす私に、ひたりひたりと迫りくる電車の足音。さっきまで生きていなかったサラリーマンや女子高生が、青い顔で甲高い悲鳴を上げている。慌ただしく鳴り響く携帯電話。彼らはその時、大きなヘビなんかじゃあなくて、まさしく生きている人間だった。その彼らひとりひとりの顔を見ながら、私の口元は弧を描く。電車が私を踏み潰す瞬間、私はたしかに生きているひとりの人間だと感じた。そして、轟音。線路の上を電車が通過していく。

 私のスカートのポケットがぶるっと震えた。開いてみると、友達からのラインが来ている。明日、学校の帰りに例のクレープ屋に寄らない? 私はかわいい絵文字をつけて行くと答えてから、携帯を閉じた。目の前で止まった電車の扉が開く。私はあくびをひとつ吐き出して、電車の中に乗り込んだ。あ、ラッキー、席が空いてる。私は空いている席に座って、また自分の胸に手を当てた。心臓が生きることの喜びを大声で叫んでいる。私の目の前に腰かけている骸骨が私をにやにやと見つめていた。

 「また、行けなかったな」

 

 車窓の外を流れていく景色を私はじいっと眺めていた。一瞬で通り過ぎたビルの屋上からひとつの人影が落ちていく。夢かな、それとも現実なのかな。髪が後ろにたなびいて、押し寄せてくる風の手のひらが私の顔を激しく叩いた。地面が近づいて、近づいて、近づいて。携帯電話の着信音。私は落ちながら電話をとった。お母さんの声が風の音を切って鼓膜を揺らす。今日の夕食、何がいい? 卵焼きがいいな、甘いやつ。私が周りを気にして声をひそめて言うと、お母さんはわかったって言って電話を切った。残ったのは無機質な音だけ。お母さんは私が死んだらどうするのかな。やっぱり泣くのかも。お父さんは。今まで見たところがないけれど、もしかしたら泣いたところが見れちゃうかもしれない。あ、でも死んだのは私だから見れないや。

 ただ、何もない日々を過ごしているだけ。特に辛いことがあるわけでもない。特に死ぬような理由があるわけでもない。彼氏はいないけれど好きな人はいる。告白する度胸は湧かないから、好きでいるだけ。友達もいる。いっぱいではないけれど、それなりに満足しているくらい。お母さんもお父さんも優しい。お兄ちゃんは最近ちょっとだけうざいけれど、よく一緒にゲームしている。すごくかわいいわけじゃあないけれど、だからってブスってわけでもない。授業はそこそこ。進学も就職もまだ考えていないけれど、たぶん地元で働くんだろうな。

 何かがあったわけじゃあないし、不満はあるけれど死にたいほどじゃあない。ていうか、死ぬのは怖い。それなのに、どうしてこんなに私は死にたくなるんだろう。クラスのみんなも同じことを思っているのかな。休み時間に笑ったり遊んだりしながら、心の中では死にたいなんて思っちゃってるのかも。それならどうして死なないんだろう。どうして私は生きているんだろう。ああ、そういえば明日は国語のテストだったなあ。いやだなあ、死んじゃいたい。

 「じゃあ、死ねばいいじゃあないか」

 骸骨がカタカタ笑う。ほうら、みんな死んでいるんだからさ。言われて車窓の外を見れば、並木道に首を吊った人たちが並んでいた。みんな血の気のない蒼白な顔して、とっても幸せそう。ほらほら、お前も死のうぜ。そうすりゃあ楽になるだろ。何を怖がってやがるんだ。俺たちは生まれる前は死んでいた。死んだら生まれる前に戻るだけじゃあねぇか。私は私の存在が消えるのが怖い。きっとみんなも。じゃあなんでそんなに死にたいんだ。怖いんだろう。わからない。何も不満もないはずなのに。どうして私は。

 「なんとなく、かな」

 小さくつぶやいた私を、正面に座るスーツのサラリーマンが訝しげに見て、けれど、すぐに視線を外した。そう、そう、なんとなく。痛いものに惹かれて。醜いものに引き寄せられて。怖いものを羨望して。苦しいものを追い求めていく。人間ってそういうものなんでしょ。死ぬ理由なんて、それだけで十分なんだろう、きっと。

 「死ぬなんてそんな気軽に言うもんじゃあない。君が死んだら悲しむ人が大勢いるぞ」

 電車のアナウンス。サラリーマンのおじさんが諭すように言う。きれいごとだけど、たぶん正しい。みんな泣くだろう。泣いてくれなかったらそれはそれで寂しいけれど。でも、悲しんだからってどうなのかな。だって、その人たちが悲しんでいるところを私が見れるわけじゃあないじゃん。私はその時には死んでいるんだから。死んだ後のことなんて知ったこっちゃあない。いや、なにも悲しむところを見たいわけでもないけれど。

 「迷うくらいなら死んじまえばいいじゃあねえか。生きること自体がつらいだろう」

 骸骨が言った。生きていたら辛いことも悲しいこともあるじゃあねえか。死んだら全部なくなるんだぜ。いいことばかりだ。何も考えなくてもいい。素晴らしいじゃあねえか。いや、でも怖いし。怖さなんて死ぬ瞬間だけのことさ。だって、死んだらなくなるんだからな。うん、うん、たしかに。そうかもしれない。私は席を立って、停車した電車の開いたドアをくぐる。降りたのは私だけだった。

 「じゃあ、行こうぜ。もういいだろ、ほら」

 骸骨が改札口の向こう側から骨だけの手を差し出してくる。頭蓋骨に開く暗い眼窩の底には爛々とした青い光が私を妖しく見つめていた。うなだれて歩く青白い肌の男が隣の改札口を通って向こう側に歩く。彼の首元には縄をきつく締めたような痕がある。私はふうと息を吐いて、切符を改札に入れると、白くて硬い手を取った。骨の顔はにやりと笑って、力強く私の手を引く。私は引き寄せられるままに、向こう側に立つ彼の胸の中に飛び込んだ。

 

 

 私のポケットで携帯が鳴る。明日、国語のノート見せてくんない? 私はいいよとラインのスタンプを返した。

 

 

 

 

 

※この作品は『小説を読もう』に投稿した小説を加筆・修正したものです。